ブレイク、
控える・という言葉を全く無視して、硬質な音が、室内に2度響いた。
それにつられて、浮遊していた意識がふ・と身体の内に戻る。
伴って沸くようにやって来る怠惰感に押される様に、幸村は硬く下ろしていた目蓋を薄らと開いた。
視界は相も変わらず冷たい純白に埋め尽くされ、遮る様にぐるりとベットを囲んだカーテンが不気味に揺れる。
その向こうにある窓から入ってきたのだろう日光も、垂れるカーテンに通されれば、薄気味悪いぼやけたものに生まれ変わる。
まるで実際には何も存在していないかのようなその感覚。
世界は未だ、自分を隔離している――そんな錯覚を幸村が抱いてしまうのに、十分過ぎる状態だった。
時間はいまいち把握できていないが、昼間――点滴の量からして巡察が終わって直ぐだ、恐らくは2時位だろう。
こんな物好きな時間に訪ねて来る者と言えば、親か、それとも点滴の様子を覗きに来た看護婦か。
嗚呼、この一時間は授業が入っていないからと担任が様子を見に来たのかもしれない。
「…どうぞ」
いずれにせよ、余り大手を広げて歓迎したい相手では無いだろう、と思考を締めくくれば、口から漏れた声は予想以上に無機質だった。
その上に広々と敷き詰められた、感情の入らない拒絶色。なんて嫌な声だろう。
それでも了承の意には代わり無いのだ。一瞬の間の後に、聞きなれてしまった病室のドアが滑る音がした。
誰か、入ってきたという空気は在る。
息遣い、床を滑るスリッパ、布地の擦れる音。それから入り口の脇に置かれた来客用の椅子を動かす音。
その間、入室相手からの声は一切無かった。
「…誰だい?」
首を擡げた不信感に任せて吐いた言葉に返事は無く、がたがたと椅子の動かされる音が続くのみ。
どうやら向こうは話す気にはなってくれないらしい。
序でに言えば、声を掛けても出て行かない・という事は間違いでもないのだろう。
純粋に、顔を見に、話をしに来たのではないらしかった。
詰りこの来訪は唯同じ空間に存在する為に、その為だけに行われたもので。
こうなってしまえば、今この幸村に相手を確認する方法は無いに等しかった。
カーテンは世界を小さく遮断し、腕に突き刺さった細いチューブはこの身体を拘束している。
たった数本、けれどもじくじくと滲みる痛みがその事を忘れるな・と叫ぶ。
首を回す事が出来こそすれ、それ以上は何も出来ない。
きつく締め上げられている訳では無いのに、脳が、知識が、動けないと指令を飛ばす。
どうしようもないという事を噛み締める様に、幸村は小さく、息を吐いた。
30分程度は経ったろうか。向こう側に居る来訪者は未だその場に留まり続け、しかし沈黙は破られないままだった。
きん・と張り詰めた空気は重く、静かすぎる所為で点滴の雫が落ちる音が聞こえてくるような錯覚を覚える。
これ以上の沈黙には耐え切れない、と幸村は口を開く。
「流石に誰とも分からない人が居るのは気持ちが悪いんだけどな」
せめて名乗りくらいしたらどうだい、と。
苦笑交じりに続けてみれば、視線を送った先――遮蔽された向こう側で、その誰かが席を立った気配がする。
結局何も言わないまま、何も見せないままに帰るのだろうか。
零れそうになった溜め息を曖昧に暈して、幸村は再び視線を小さな天井へと向ける。
この小さな空間は、鬱々とした気分を溜め込んで、篭っていく。
しかし世界は開けた。
鮮やかな金糸が視界に写り込み、純白の檻を突き破る。
その持ち主の何時に無く真剣な瞳は、数秒だけ此方を捕らえた後、直ぐに逸らされた。
錦は、何も言わないまま。視線を逃がした方向へと身体を向け、切り取られた世界から逃れていく。
それに合わせるように首を動かして見れば、錦は此方を振り返る事もなく、からからと扉を開け放つ。
その背、不意に沸いた感情に植えつけられた焦燥。
――彼は自分の弱りきった姿に何を思ったのだろう。
失望?幻滅? 果ては見放されただろうか。
嘗ては自らを下した後輩が、栄光を抱えていた者が。
今は見る影も無いと。 だから何も言わずに?
そんな事をするような人ではない―そう解っていても、何も語らない彼の背からは何も伝わらない。
ゆえに思考は廻る。鬱々と。
自分が病床についている所為だろうか、一度落ちた気分は、酷く嫌な想像しか寄越さずに。
何故だろう、時間ばかりが無限にあるかのように此処の一分一秒は長い。
まるで緩やかな拷問のようだ。――考えだけがぐるぐると頭を占めていくのに、これほど適した場所もない。
……何も纏まらない。
顔を久しぶりに見れたのは嬉しいとも思う。それも事実だ。
何せ近頃は部活の仲間もやっては来ず(4日間程合宿に行くと言っていた)(ような気がする)(覚えてない)、日々が霞んだように白かった。
彼が現れた事でようやく霞んだ思考が晴れたような感覚が沸いて、その、裾を掴みたい衝動が不意に生まれる。
けれども此の手は、何を抱く事も出来ない。
去る彼を引き止める術も、言葉も、当然持ち合わせていなくて。
その意味を尋ねようにも、がたがたと喚く椅子を呆けたように眺める事しか出来ずに。
此処に置いていかれるのだろうか。それとも励ましに来たのだろうか。
真意なんて掴めもしない、無言の訪問。
「それでも……有難う、先輩」
ようやく零れた言葉も、閉められた扉に向かって、白く砕けた。