除夜
ごぉん、と一つ、遠くの寺の鐘が年の瀬だと声を上げた。
街中の賑わいとは少し離れた白石の屋敷内にはその音はよく通り、自然と聞く者の心中を感慨深くさせていた。
この屋敷の若旦那こと白石蔵ノ介も例に漏れず、甘酒の杯を傾けながらゆく年の音に耳を澄ませる。
「…もう直ぐ今年も終わり、やんな」
ぽつ、と呟くようなその声も、それでも静寂を広げたようなこの地では傍に居らずとも聞き取り易い。
少し離れた場所で腰を据えていた忍足謙也にもそれは当然届いた。
白石のしみじみとした声音に、忍足は苦笑を零して開け放たれた襖の向こうに覗く寒空へ顔を向けた。日の出はまだまだ遠い。
「どないしたねん、そない声出して」
「いや色々あったな思うと、な」
今年は気付けば一人、屋敷に用心棒が増え。
行方知れずと聞き及んで居た取引先の娘を見受けし。
白石の妹には何時の間にか恋仲寸前の男が出来た。
いつの間にかじわじわと、人の輪が広がっている事に気付かされる。
そしてこの家とこの家を取り巻く者達の小さな幸せが ささやかな平和が続くことを、祈る。
皆が何がしかを抱えているこの家では、それがもっとも望まれ、そしてもっとも難しい。
何時、彼等の過去を知る者が、そして心の闇を暴く者が現れるか。
それは今この時であっても、何ら不思議は無いのだから。
「…なあ、謙也」
「んー?」
そう思えば、不意に不安という影が心をさあっと染めていくのが人の性。
まるでその時が、明日にでもやってくるのではないか、等と愚考を浮かべてしまう。
明日には、もう、この心地良い時が来ないのでは無いかと。
「自分は何があっても此処に居りや」
駆られた不安に任せ呟かれた言の葉は、到底普段の白石からは聞けぬもの。
その事に多少の訝しさを抱え、忍足は持っていた杯を置き、その顔を潜めた。
小さく、その水面で雫が跳ねる。
「突然どないしたん?」
「なあ、居ってくれるんやろ」
ぐい、と腕を引けば、視線と視線は完全にぶつかり合う。
真っ直ぐに覗き込んだ忍足の瞳は、何処か、理解していないながら何かを感じた様な色を宿し。
その唇から紡がれる言葉を、とその先を望み、また恐怖する心を押さえ込んで、白石は待つ。
「…当たり前、や」
「……なら、つっかえなや…」
解っている、それが約束出来ぬ事だという事位は。
忍足は所詮分家の者だ。いくら本家の跡取りの理解が深いとはいえ、何時呼ばれるとも知れぬ身だと。
今此処に居る者が、来年には謙也では無く侑士になっているかも知れぬと。
それだけ白石と、忍足の家柄の間には超えられぬ壁があるのだから。
それでも、と。
希うのは自身の勝手でしかなく、意思では如何にもならぬのだ。
忍足も、そんな事位重々承知なのだろう、だから先の事に関する答えは、何時も曖昧だ。
「堪忍…でも、俺は居りたいで 蔵ん傍に」
だから忍足はそう言って、ふわりと、蒲公英の一輪でも咲いた様だと例えられる笑みを浮かべ。
唯自身の胸中を、何の恥ずかしげもなく言い切る。
それが白石を、少なからず安堵させているのだと知っているから。
そしてその言葉に、安堵からか力抜け重力に従い落つる掌は、そのまま忍足の指先と重なった。
じわりと伝わってくる体温に、白石の目から一つ、涙が零れる。
「………アホ」
誤魔化す様に悪態を吐いて、宥める手にされるがまま、白石はその肩口に顔を埋める。
このままでは忍足の着物が濡れて汚れる、と一瞬頭をよぎったが、泣き顔を見られるよりマシだと考えなかった事にして。
ぎゅ、と握り締めたその指先を 唯々。
きつくきつく、零れ落ちぬ様に手の中に仕舞い込んだ。
胃の中へと滑り落ちた酒が舌先を、喉奥を焼いて 胸を焦がして。
全ては酔いで帯びた熱の所為だ、と白石は心の中で言い訳のように呟いた。
2008.1.1. A HAPPY NEW YEAR!